
前回、潜在する分離発注のデメリットについて考えてみました。が、先に進むことはできませんでした。
ならば、新たな知見を得る(に近づく)ために、これまでの自分の経験、キャリアを超えた昔に遡ってみることにしました。今回は、戦前からの住宅建築の歴史を振り返ります。

戦前の家づくりは建築、ではなく普請(ふしん)と呼ばれていました。谷崎潤一郎さんの「陰影礼賛」や山田芳裕さんの「へうげもの」で目にしたくらいでよく知らなかったのですがこの言葉は、本来は住宅建築にかぎらず、公共社会基盤を地域住民でつくり、維持する事を指していたのだそうです。
建築主さんは「旦那」と呼ばれ、出来高報酬制で職方を雇って普請に臨み、現場の采配は棟梁にまかせるスタイルで、まさに旦那、一大事業主な感じです。
当時の住宅着工件数は資料をさがしたけれど残念ながら見つからず、直近の1946(昭和21)年で約30万戸でした。建築確認制度はまだなく、市街地建築物法にもとづく、警察からの許可制だったようです。

サンフランシスコ講和条約を翌年に控えた1950(昭和25)年に建築基準法、建築士法、住宅金融公庫法が制定されています。
どうやらこのあたりで戦前の「普請」ではない家づくりの手法、つまり「旦那」として工事に臨まずに注文住宅を建てたいという新しい顧客層の要望を満たすためのパッケージとして、一括請負というシステムが産み出されたようです。
棟梁をお抱えにしなくてもよい、総額が明示されて公庫融資が可能であり、ひとつの窓口にお金を支払えば家が完成する。いまではそれがあたりまえとも思える仕組みができたのは、戦後まもなくのことだったようです。
戦後復興と都市への人口集中の、無尽蔵といえるほどの住宅需要が背景にあって、生産性を向上させ規模を拡大して経済活動のなかにどんどん取り込まれて、「家づくり」が基幹産業として成長してゆくために、必要な速度をここで得なければならなかった、といった見かたもできるのでしょうか。
高度成長のなか、年間の住宅着工件数はそれから右肩上がりの増加を続けて、すべての都道府県において住宅数が世帯数を上回った、そこから23年後の1973(昭和48)年に190万戸に達したのをピークにして、以降の着工件数はゆるやかに減少してゆきます。40年後の2013(平成25)」年の統計は98万戸で、さらに2024(令和6)年では79万戸でした。

次回、このような戦前からの家づくりの歴史を下敷きにしてみえてきた、分離発注に潜在するデメリットについて書きます。
